2009年2月23日
水茄子の旬はいつだったっけ、と見知らぬキッチンで考えている。
という夢を見た。
夢日記を書いている。
夢日記は友達にオススメされたりされなかったり人によってさまざま。一説には書いているうちに気が触れてしまうのだとか。でもドグラマグラを読んでも一度も精神に異常はきたしていないからきっと大丈夫に違いないとか、まったく論点を違わせて是か非かはわからないまま宙ぶらりんに書きつづけている。
夢は自分の経験したものが反映する。そこには色があるし、変化が過ぎて、会ったことも見たこともない人物が出てくることもある。
夢には一人称と三人称とその間であることがあって、一人称側に近いときは「考えること」もできる。夢の中でああなったらいいなだとか嫌だなと想像することもできる。しかしこれはあくまでも自分の見る夢についてであって、ほかの人がどんな夢を見るのかはわからない。
しばらく書き続けていると、夢の記憶定着が鍛えられているような気分にもなってくる。
また幾たびか書きつづっていると、ある日、夢の中で自分に起きたこととまったく反対のことがその翌日に現実に起きた。これは予知夢を見たような感覚に陥ったけれど、醒めた頭で考えればそうではなく、自分の考えていたことが夢に反映されて、起きているときの行動の答えが夢とは逆の形でタイミングよく起こっただけだった。
だから自分に起きるおおよそすべてのことで、まだ予知夢を見たことはない。
本当にないのだろうか。
そもそも予知夢とは何なのか。
自分の経験が変化を伴って夢に現れるなら、これはなんらかの予知現象が覚醒時に起きているわけで、つまり予知夢らしき夢を引き起こすのは覚醒時の出来事であるともいえる。言い換えると覚醒時には予知夢らしき夢を引き起こす予兆が現れているのかもしれない。
そう考えると少しおかしなことになってくる。
悪い夢をみたときには、起きたあとに「ああ夢でよかった」と思う。だいたいの人間が現実を重視しているのだから当たり前だけれど、たとえばそれがまったく逆で、世の中には夢のほうを重視している人間がいるかもしれない。そして先に書いた予知夢と覚醒時予兆の意味を逆に捉えている人間がいたとしたら、現実に悪いことがおきたときには「ああ現実でよかった」と思うわけだ。
「ああ現実でよかった」は現実の中で考えることでもあるけれど、夢の中で考えることもできるわけだ。
予知夢らしき夢と覚醒時予兆、現実を引き起こす夢と夢を引き起こす現実のどちらが重要かを明確にせず、鍛錬か才能によってその二つを限りなく近く同調させつつ、夢に時間と空間の制限を持たない人間。
これがいわゆる予知夢を見ることのできる人であると思う。
つまりは2つの世界を生きる人。
水茄子は梅雨の季節。
夏の前には杉と桜と梅がある。
予知夢についてとどのようにして気が触れるかについての考察、とその抜粋。

おや。久しぶり。
ウェイキングライフちゃんと見たことないのよー。
うーんいま見るべきかもね。
見てみる。
by 小川 - 2009年2月26日
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ども。おひさしぶり。
ウェイキングライフって知ってる?
おもしろいよ。
by ひで - 2009年2月24日