2008年11月27日
ワインの樽に泥水を一滴垂らしたら、それは樽一杯の泥水だと思うか? と訊ねたら、
そういうときは、とにかく歩け歩けと言われた。
どういうときだ?
いや、こういうときだ。
こういうときには、いつもよくわからない答えが返ってくる。
勘が鋭いんだ奴は。
しかたなく言われたとおり歩いた。歩いて歩いて、歩いた。
方向音痴は散歩の助け。
しばらく歩いて体は温まり、喉が渇いた。
足も疲れたので少し休もうと、看板の出てない店に入った。
寒くて狭い店内で、老人たちが小さなステージをぐるりと囲んでいた。
くすんだ木製の椅子に座り、手にはグラスやボトル。
照明はうす暗く、椅子の脚も老人たちの足も床から生えているように見えた。
彼らは唇のふちをわずかにつり上げて、隙間からウオツカを流し込んでいた。
あちこちから聞こえてくる舌打ちの音。ちっ。ちっち。
なんでみんな舌を鳴らしているんですか? と誰ともなしに問いかけると、
もっとも泥酔していたであろう老人が面倒くさそうに答えてくれた。
溶け込まないように。混ざらないようにだよ。
舌打ちはやがて小さなしゃぼんのように老人たちの口から飛び出し始めた。
繊細に震えながら。だいたいのしゃぼんの形を保ちながら。
彼らの頭上を鈍い音を立てて飛び回っていた。
帰る巣を忘れた季節外れの蜂みたいに、捉えることのできない輪っかのように、
ずっとぐるぐる巡っていた。
マーチングバンドがステージのセリから静かに登場した。
辺りに漂うウオツカの甘い香りと、まとわりつくような羽音を逃がさないよう、こっそりと。
窮屈そうに楽器を抱えた5人組。でっこぼっこのマーチングバンドだ。
ステージがただの飾りじゃなくてほっとした。
ドラムロールが低くうなり始め、ウッドベースが上り下りを繰り返した。
高音のペットがはじけ、冬に痛む古傷みたいにじくじくしたギターが絡んだ。
やがてリムロールと細かくて消え入りそうなフィルイン。
ブレイクが長過ぎた。
歌もなく曲も終わりか? と思ったところで、声が聞こえた。
それから聴いた歌はどんな歌詞だったか詳しく覚えていないけれど、
老人たちの頭上を飛び回っていた蜂はいつの間にか消えていた。
消えたのがブレイクの前だったか後だったかは思い出せない。
やっぱり歌詞もはっきり思い出せないけれど、
山や海や丘を素早く飛び越えて、月の速さもぼくには及ばないとか、なんかそんなの。
どこかの戯曲とよく似た内容だった気がする。
どのようにして、いつ店を出たのかも覚えていない。
夢見心地で家に帰って、ホットワインを作って飲んだ。
おいしかった。
あんな寒い箱、冬は御免だけれど、夏になったらまた行きたいと思う。
神楽坂の奥の奥。
深層心理の底の底。

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